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鈴木ナオミ - Naomi Suzuki -

★Contact★

nanamusic@btinternet.com or naomi@sweet-naomi.com

■イギリス・ロンドン在住 福岡県田川市出身 ■ラグビーワールドカップ2019 オフィシャルアンバサダー(開催都市特別サポーター) ■シンガーソングライター・プロデューサー・プレゼンター・女優・マルチタレント ■福岡県田川市魅力向上大使(観光大使)大使紹介(哀川翔さん、中島かずきさん、花田光司さん他)

■ユネスコ世界記憶遺産の「山本作兵衛炭坑画」のワールドツアーをプロデュース。https://www.goto-japan.net/

日本にて歌手活動中にイギリスのプロデューサーからスカウトされ、イギリスにて歌手デビュー。 鈴木ナオミのソロと平行してユニットバンドのAJ Unityでも活動し、2012年にリリースしたアルバム「Sweet Roses」の「Jupiter」は、全米ラジオチャート14位を記録、全世界1,400のラジオ局の投票では3週間連続で1位を獲得。

 

また、渡英する日本のアーティストのためのコーディネート会社を設立し、プロデューサー、プレゼンター、女優などとしても活躍するかたわら、ロンドンにて毎年7万人以上を動員する大規模イベントである「英国ジャパン祭り」の総合司会とパフォーマンスおよび、テーマソング「IBUKIを制作するなど、英国での日本文化PRのイベントでも積極的に活動。

 

東日本大震災以降は、「音楽で生きる力」をテーマに、数々の復興支援ソング発表し、これまでに熊本・東北など100ヶ所以上の被災地に足を運び、コンサート・施設訪問など主に音楽通じて支援活動を続けている。収益は全て寄付。

 

2015年 日本人初のイギリス国会議事堂でのコンサート(東日本大震災追悼コンサート)を主催し成功させ日本の各テレビ局でも報道される。

 

2016年、ネパール外交関係樹立60周年記念行事として「ネパール地震1年メモリアルコンサート」に出演、難民キャンプや小学校を支援し、ネパール労働大臣より賞「インターナショナルフレンドシップアワード」を授与されるなど、日本国外での支援活動に日本のメディアからも注目を集めた。

 

熊本震災被災地支援の為、日本全国14箇所チャリティーツアーを開催。3700人の応援の声を収録して義援金と共に届ける。 https://youtu.be/knXU7-6ePE0

 

その他、出身地である福岡県田川市のゆるキャラ「たがたん」のテーマソング「たがタンゴ」の作曲、そのPVの制作なども行い、「たがたん大使」「田川市観光大使(たがわ魅力向上大使)」として地域振興の一端を担うなど、幅広い活動を行っている。

 

このような活動が認められ

2018年には、東北「復興の日」にプロ野球楽天イーグルスの試合で、

2019年には福岡ドームでのソフトバンクホークスの試合で国歌斉唱を行う。

  ■メディア 新聞記事等 http://www.sweet-naomi.com/media,6.html  

内閣官房東京オリンピック・パラリンピック推進本部事務局のプログラムに認定を受け、日本の文化を世界に発信プロジェクト「Bridge Together Project」を発案。日本から夏木マリさんを招き、201910UKJazz Funkの巨匠、James Taylor Quartet とのロンドンの有名コンサート会場でコラボコンサートを開催する。

 

2020年 Covid-19の感染拡大により、ツアーイベントは全てキャンセルを余儀なくされるも、イギリスの医療従事者を支援するオンラインチャリティーコンサートに参加、また熊本豪雨被災地支援チャリティーコンサートも配信で開催。収益は全て寄付している。

 

2020年6月にリリースした「Harder and Fasrer」が、世界1693のラジオ局・ DJの投票で1位になる。

 

2021年1月にリリースした「Pray for you 2021 Remix」が、世界1693のラジオ局・ DJの投票で2度目の1位になる。

■Covid-19感染拡大状況下「Pray For You 2021 」に込めた思い

『アーティストには、苦しむ人たちに「芸術(音楽)」を通じて生きる力『負けない命』を感じてもらえるように頑張る使命があります。世界中全ての人たちが苦境に立たされている今こそ音楽は世界を救うと信じています。そしてこのパンデミックや荒 れる人々の感情が、私たちに何を伝えようとしているのかその意味に、毅然と、穏やかに、誠実に、そして優しく向き合いたいと思い平和への祈りを込めて制作しました』

■プレゼンターとして■ ロンドンから日本に向けて、ロンドン情報を発信するラジオ番組「ナオミのLONDON CALLING(日本7カ所のFM放送局)」のパーソナリティーを務める。

毎年7万人以上を動員する『英国ジャパン祭り』の総合司会を初回から8年間担当。

世界映像博覧会でNHKのプレゼンター、MTVの番組宣伝プレゼンター、

オリンピック関連イベント司会、もしもしにっぽん in Londonの司会、松竹歌舞伎のレセプション司会など活躍中。

また女優として英国の名優ヒュー・グラントと映画で共演。ヨーロッパのTVコマーシャルや、英国のドラマなどにも出演する。

鈴木ナオミ 波瀾万丈ストーリー

鈴木ナオミの波乱万丈ストーリーはここから始まる。

あれは小学校3年の春だった。 引っ込み思案であった私は、エレクトーンという楽器を与えられ音楽で自分を表現すると言う事にのめり込む。 音大生しかみないという近所で評判の教室でオーディションを受けた際、その講師は私の事を「この子は10年に一度でるかでないかのスター」と過剰に褒め、レッスンに通うよう勧める。その後、九州大会や、全国大会に出場。九州大会では二度優勝する。観客との呼吸が同じになって一体感を感じる感覚。

スポットライトの中で自分がはじける感覚に目覚め、エンターテイナーとして一歩を踏み出すも、小学校5年の夏休みに5メートル下の立体交差点に墜落。腕を複雑骨折し、切断の危機に遭遇。その後、なんとか切断は免れ再度復帰を目指してコンクールで優勝するも、神経のない不自由な腕になり、長時間のレッスンが厳しくなり演奏活動を諦める。しかし、音楽で表現することを止める事ができなかった。そして歌へと。。

鈴木ナオミの波乱万丈ストーリーはこの時既に始まっていたのかも知れない。 日本で「なんちゃってアイドル」として、アニメの主題歌やコマーシャルソングを歌っていたりしたある夏の日。イベントコンサートでロックや外国の歌をぶっちぎれて歌っていたらイギリスのレーベルのプロデューサーが近寄って来て囁いた。 「イギリスでデビューしませんか?」恐れを知らなかったナオミは、英語もしゃべれないのに「タダでイギリス旅行!」とウキウキ後先考えずにロンドンへやって来た。両親はひっくりかえった。ビギナーズラックで、UKダンスチャート12位になったり、BBCでドキュメンタリーは放送されたりしたのに、母は、私が知らない国へ売られたと思ったらしい。

 

しかし、ビギナーズラックは所詮ビグナーズラック。日本でCMやドラマのタイアップも決まり大掛かりなデビューが決定した頃、日本へ凱旋売り出し企画の制作費1億円が、間に入ったプロデューサーによって、持ち逃げされるという事件発覚。関係者全員「クビ」でいきなりの、ジ・エンド宣告だった。

鈴木ナオミのリベンジ第一章は『ヒューグラントと共演』から始まる。 プロデューサー1億円持ち逃げ事件の後、日本の大手レーベルとの契約も立ち消えになり路頭に迷っている時、何気に受けたオーディションに受かってしまい、 映画出演の話が舞い込んだ。それも当時大スターだったヒューグラントとの共演!オーディションでは、グラマラスで美人な女優さんばかりが集まり、「これは場違い!」と、一刻も早くこの場から立ち去る事を決断。プロデューサーの「君にとって愛とは?」の質問にふざけた回答をしたのが、ウケたらしい。その日の内にプロデューサーから合格!の電話があった。実際は一瞬の登場だったものの、8時間にも及ぶ、ヒューグラントとの素っ裸のベットシーンを演じた。

その後、連続ドラマにも出演でシンドラーのリストやハリーポッターに出てくるRalph Fiennesという俳優さんとも共演。でも、英語があまりしゃべれず、「What is your name?」の質問にも「イエ~~イ!」しか答えられない。 これは「いかん!」と学校に通って猛勉強を開始した。そしてまた事件 がっ!!

後2週間で日本に帰国命令!? 有名映画に出たと浮かれている場合じゃなかった。 ビザ更新の為に、一時国外へ出てイギリスに戻って来たときに発覚。「これ以上ビザは延長できないので帰国せよ。」と強制送還命令。(当時ビザは空港で発行してもらえた)志半ばで日本になんか帰れない。 その時、急遽思い立ったのは、アーティストとしての経験を生かして、制作会社&日本のアーティストのイギリスの活動を支援する会社を設立すること。結果なんとかこの窮地を切り抜けた。 会社設立当時、宇多田ヒカル、矢井田瞳、小柳ゆき、布袋寅泰、黒夢、Luna SeaのSUGIZO、さかいゆう、葉加瀬太郎、らの活動をコーディネートした。

 

 

その後も、日本のテレビ番組やCM制作の依頼、ロンドンオリンピックの仕事までがどんどん入って来て、もう歌なんて 歌っている場合ではなかった。 このまま、歌をやめてしまうのか?設立した会社は忙しくなったものの、日本のトップアーティストのスタッフとして仕事をすることに葛藤はあった。むしろ『嫉妬』 と言った方が正しいかもしれない。自分がステージに立ってない事への嫉妬。あるアーティストのレコーディングの日、マスターテープ(後に1位になったアルバムの素材)が不明になった。その時「そのまま出てこなければ良い。」と一瞬でも思ってしまった自分を恥じた。情けなかった。コーディネーター、経営者と してプロ意識が持てない自分を心底嫌った。

そこから決めた。「今までの自分を捨てよう。自分はもうステージに立つ事を望むまい」と。トップアーティストの裏方のプロとして生きて行こう。 その時から私は、アーティストの部品になることに集中した。そして関わったアーティストは皆スターダムへと上り詰めて行った。 だけど、やはり歌う事は止められなかった。細々と、「ナオミ劇場」なる小さなショーを開催して、日本語の懐かしい歌を歌いロンドン在住日本人に楽しんで頂いた。もうそれで 良かった。そして遂にこんな依頼が!! <カーペンターズのリチャードの伴奏で歌を歌ったっ!の巻☆>

歌を諦めた頃、リチャードの日本での番組出演のお手伝いをすることになった事をきっかけに、グラミー賞に同行し、リチャードカーペンターズのご自宅まで行く事になったことには、天変地異かと思った。

 

 

そもそも、リチャードとの出会いのきっかけをくれたのは、「日本で故ダイアナ妃の写真、ドレスの展覧会を開催したいので、オーガナイズして欲しい」と私に依頼して来た日本の制作会社だった。

依頼内容は王室オフィシャルのカメラマンとの契約。妃が亡くなる直前までドレスを作り続けた妃のお気に入りのデザイナーのドレスの展示。ハードル高過ぎっ!と思ったが 、駄目な気はしなかった。 デザイナーのサロンへ押し掛け直談判で、その日の内に契約を取り付けた。結果2年間、日本全国14カ所 123日間で、のべ23万人を動員の大成功の展覧会となった。 (その時に制作したBGMアルバムが後に、全米でヒットするAJ Unityの楽曲となる) 話は戻るが、リチャードカーペンターが、取材の後、「ナオミは何が歌えるの?」と、そこにあったピアノで私の為に、”I need in love“という曲を伴奏してくれ、その伴奏で歌ったのだ!!こんな奇跡が起こる事は想像していなかった。 興奮してわけのわからないことを口走ると、やさしく「やったじゃなか!よくできたよ」とお言葉まで頂いた。 リチャードカーペンターと仕事できたし、もう心の中で「成功」という言葉が自分を取り巻き、満足感の中で有頂天になっていた。恐ろしい病魔が襲いかかろうとしている事も知らないで… <病>それは突然にやってきた。ホラー映画の特撮かと思うような肺からの大量出血。口からゴボゴボとその血液の量は尋常じゃなかった。結核を疑われ隔離される。検査の結果、肺に重大な疾患が見つかり、その後現在に至るまでも、ちょっと免疫が落ちると出血と肺炎を繰り返す。(2019年5月に手術)。 発症からしばらくして症状が激しく寝たり起きたりの頃、アメリカのプロデューサーから突然『ナオミの歌をアメリカでプロデュースしたい』と連絡があった。ダイアナ妃展の会場BGM用で制作したアルバムがイギリスで評判が良かったので、イギリスでリリースしたら、イギリスの新聞や雑誌で思いがけず高評価を受け話題になっていた。その噂を聞いたという。 死ぬか生きるかで、体調がそれどころじゃなかったので返事ができてなかったら、数ヶ月後そのプロデューサーがロンドンに会いにきてくれたのには驚いた。死ぬ前に『ダメモト』・・この時ほど、この言葉がぴったり来た事はない。任せる事にした。 翌年、アメリカでリリースの1ヶ月後100位、そしてレディーガガ、ビヨンセをぐんぐん抜いて、全米ラジオチャート14位になっていた。全世界1400カ所のラジオ局の投票ではなんと3週間1位になった。 全米リリースの前、体調は悪化していた。そして、遂に自力で起きていられないくらいの状態に。 病院に担ぎ込まれ医師に緊張が走る。意識レベルの低下の中、あの忌まわしい、3.11が起こった。 そして1通のメッセージが・・・ 『ナオミさんの歌で被災地を救ってください』3.11の直後、突然見ず知らずの人からツイッターで送られたメッセージにはそう書かれていた。 その時私は、肺からの大出血に加え、白血球の異常減少で免疫不全と肝機能障害で瀕死の状態だった。私に何ができるのか・・・「そうだ!死ぬ前にもう一度CDを残したい・・それが被災地の人たちに役に立つのなら。」その決心から『生』への執着が蘇った。 命をつなぎながら、被災者の皆さんの思いを作文にしてもらい、それを歌詞にした。必死で楽器を、歌をレコーディングし、完成したときには飛行機に乗れるくらい回復していた。 ロンドンの皆から書いてもらった寄せ書きと一緒に完成したCDを持って、ツイッターメッセージをくれた被災地の人に命がけで会いに行く。 仮設住宅で被災地の皆さんと歌うと自分自身が元気になってゆく。音楽の力は生命を蘇らせる事ができる。凄い!!私は生かされた。そう確信した。 その後これまでロンドンから100ヶ所の被災地の施設を慰問した。非難される事もある。身内すらも理解できない事を他人が理解できるはずもない。 私の決心は、歌でお金を沢山稼ぐ事でも「歌で励ましてあげる」のでもなく、願いは私の声が世の中のお役に立つこと。それだけなのです。私にとって生きるという事はそういうことなのです。もっと子供たちやお年寄りや被災者の皆さんに寄り添って歌を歌いたい。 祖国から遠く離れたこのイギリスで日本の事を思ってくれる人達の思いを伝えたい。私しかできない事で日本とイギリスの掛け橋になりたい。 その思いが遂に、イギリス国会に通じた。2015年、3月。英日議員連盟のオファーで東日本大震災追悼コンサートとして、英国会議事堂にて日本人初のコンサートを成功させた。全東北エリアで放送されるNHKのワイドショーにも出演した。

 

 

同年2015年、世界中に住む日本人の言葉〔日本のチカラ、日本の文化、日本への思いなどを募集)を集めて、イギリスで開催される日系最大のフェスティバル『ジャパン祭り』のテーマソングを制作。BBCニュースで放送された。 https://www.youtube.com/watch?v=-6iFFXga7Dw

2016 年11月、ネパール地震の被災地訪問のため、ネパールに渡り、チャリティーコンサートを開催、小学校の生徒達に鞄を寄与した際、ネパールの厚生労働大臣(Minister, Labour & Employment Ministry in Nepal)より「International Friendship Award Expert of the year」という賞を受賞する その後、日本でも次々と自然被害が発生し、支援活動への思いが募る。 しかし、2017年には肺の病気はかなり悪化していて、肺を切除するかどうかの決断を迫られていた。それでも、熊本地震や、九州北部豪雨など災害が起こるたびに、病気と闘いながら、日本に帰国してチャリティーコンサートを開催した。 その度に病気は改善し、小康状態を保っていった。 それは、「自分が生きていられる」事の何よりの薬は、世の中の為に自分が役に立っていると言う事を実感することだと確信していたからだ。 人は「ナオミさんは偉いね。凄いね」と評価してくれるが、自分が生きる為の手段だった。 2018年 これらの復興支援活動が認められ、仙台で「復興を誓う日」として開催されたプロ野球楽天の試合で国歌斉唱を依頼される。 その後、九州北部豪雨のチャリティーコンサート福岡県庁開催で歌った際、ラグビーワールドカップ日本大会福岡推進委員会事務局長の目に留まり「世界からラグビーを発信して欲しい」とオフィシャルアンバサダー(開催都市特別サポーター)に任命され、ラグビーワールドカップ日本大会をPRする任務を受け世界中で注目される。一つ一つの活動。点と点が繋がっていく事に感動を覚えていた。

 

2019年 5月 遂に肺の機能が低下し、動脈破裂寸前になり手術を行うが、6月には復帰しプロ野球ソフトバンク対阪神タイガースの試合で国歌斉唱をする。

 

社会貢献への思いを自分自身の生命力に置き換え、そして、その「世の中のお役に立ちたい」という思いは、内閣官房オリンピックパラリンピック推進本部事務局に届いていた。 「世界から日本の文化を発信!」するオリンピックプログラムに2017年認定を受け、地元福岡県田川市が所蔵する「日本初、ユネスコ世界記憶遺産 山本作兵衛炭坑記録画」のワールドツアープロデュースを開始。3年がかりで実現までこぎ着ける。 まさに命がけの実行だった。2019年在英日本大使館で開催、鶴岡大使に「日本にとって歴史的な出来事」と評価を頂いた。

 

 

2020年9月まで、ウェールズ国立炭坑博物館、スコットランド国立炭坑博物館、NY Nippon Clubなどでの開催が決まっている。既に日本経済新聞、毎日新聞、読売新聞、朝日新聞など各新聞で「命がけの発信」と紹介され、にわかに話題に!! ●公式HP:https://www.goto-japan.net/

2019年10月には日本から夏木マリを招いて、「世界はまだ昭和歌謡の凄さを知らない」と題し、これまでまだ世界に紹介されていない「日本の昭和歌謡」コンサートをロンドン有名ホールで700名を動員して開催。 演奏はイギリスでジャズファンクの巨匠として有名なJames Taylor Quartet と日本の太神楽も取り入れ視覚的にも「和」を演出して話題になった。

 

2020年 Covid-19の感染拡大で世界中のアーティストが苦境に陥っている中、音楽は人を癒すためにある!自分に与えられたミッションを実行する!と決心し、配信チャリティーコンサートや、配信リリースを積極的に実行。また、もし今、自分がこの世からいなくなってしまったら、今、世の中に出てない曲がずっと誰にも知られないことになってしまう!とリリースしたところ、アメリカのチャート 世界1693のラジオ局・ DJの投票での1位になり、日本でも話題に。

【コロナと生きる】都市封鎖で心と向き合い、ヒットチャートで 1 位になった ロンドンの歌姫 https://news.yahoo.co.jp/byline/kimuramasato/20200701 00185917/?fbclid=IwAR32AlhEO4TDeFr7EOeSm5pTIy5lZ4Ud kNL1t4Vx8kXhK JtQxDgP8JmYs

2021年1月リリースの Pray For You 2021 」に込めた思い 『アーティストには、苦しむ人たちに「芸術(音楽)」を通じて生きる力『負けない命』を感じてもらえるように頑張る使命があります。世界中全ての人たちが苦境に立たされている今こそ音楽は世界を救うと信じています。そしてこのパンデミックや荒 れる人々の感情が、私たちに何を伝えようとしているのかその意味に、毅然と、穏やかに、誠実に、そして優しく向き合い たいと思い平和への祈りを込めて制作しました』 鈴木ナオミ

音楽の力を信じて。今日まで生きてこられました。歌を歌わせてくれる皆さんに感謝。生かされている事に感謝です。 そして明日へ明日へと命を繋ぎながら行けるところまで行ってみたい。自分にしかできない事で日本と世界の架け橋を繋ぎたい。 最後に夢は「紅白歌合戦」!集大成です。これからもナオミヒストリーは続きます。

鈴木ナオミ naomisuzuki7@icloud.com HP: https://www.sweet-naomi.com/ +44(0)7796144338

イギリス ロンドン在住。福岡県田川市出身 ・歌手、女優、司会者、プロデューサー、としてヨーロッパで活動中のマルチタレント。

・ラグビーワールドカップ開催都市特別サポーター(オフィシャルアンバサダー) ・ロンドン芸能コーディネーター会社「NANA MUSIC UK LTD」 代表取締役 ・福岡県田川市「たがわ魅力向上大使」「たがたん大使」

日本の文化を世界に発信するプロジェクトをイギリスで多くプロデュース。 BBCで『イギリスで最も有名な日本人シンガー』と報道される。

2012年『AJ Unity』としてリリースされた『Sweet Roses』が全米ラジオチャート14位を記録。全世界1400のラジオ局の投票では3週間連続で1位を獲得。 過去イギリスダンスチャート12位にランクインし、『世界に挑戦する初の日本人シンガー』としてBBC放送がドキュメンタリー番組を放送。これらの活動は欧米で話題になり、今なお世界へのチャレンジを続けている。

2015年3月 日本人初のイギリス国会議事堂でのコンサート(東日本大震災追悼コンサート)を成功させ、日本のメディアからも注目を集めた。

東日本大震災以降、数々の復興支援ソング、支援CDを発表。『音楽で生きる力を!』をテーマに支援活動を行い 現在も被災地に足を運びチャリティーコンサートを開催して被災者を応援している。

2016年 熊本震災復興支援全国ツアーを開催。日本全国14箇所 総勢3700名のオーディエンスからの「応援メッセージビデオ」を制作。東北と熊本を繋ぐプロジェクトを遂行した。収入は全額寄付   https://youtu.be/knXU7-6ePE0

また、ネパール外交関係樹立60周年記念行事としてネパール地震1年メモリアルコンサートにネパールの人気シンガーと出演するなど音楽を通じた支援活動を積極的に行っている。 ※ネパール労働大臣より賞「インターナショナルフレンドシップアワード」を授与

これらの支援活動が認められ、2018年、仙台市におけるプロ野球公式戦(復興を誓う「東北プライドデー」)で 国歌を斉唱を行う。

2017年3月に、災害復興支援のための新たなプロジェクト「Bridge Together Project(日本へ行こうよプロジェクト)」を発足し、2017年5月に内閣官房東京オリンピック競技大会・東京パラリンピック競技大会推進本部事務局「beyond2020」掲載イベント)のプログラムに認証される。

Bridge Together Projct として

●日本初ユネスコ世界記憶遺産「山本作兵衛炭坑記録画」ワールドツアーをプロデュース●

2019年 ソフトバンクホークスと阪神タイガース戦で国歌斉唱を行う。

 
<カーペンターズのリチャードの伴奏で歌を歌ったっ!の巻☆> <カーペンターズのリチャードの伴奏で歌を歌ったっ!の巻☆> <カーペンターズのリチャードの伴奏で歌を歌ったっ!の巻☆> <カーペンターズのリチャードの伴奏で歌を歌ったっ!の巻☆> <カーペンターズのリチャードの伴奏で歌を歌ったっ!の巻☆> <カーペンターズのリチャードの伴奏で歌を歌ったっ!の巻☆> <カーペンターズのリチャードの伴奏で歌を歌ったっ!の巻☆> <カーペンターズのリチャードの伴奏で歌を歌ったっ!の巻☆> <カーペンターズのリチャードの伴奏で歌を歌ったっ!の巻☆> <カーペンターズのリチャードの伴奏で歌を歌ったっ!の巻☆> <カーペンターズのリチャードの伴奏で歌を歌ったっ!の巻☆> <カーペンターズのリチャードの伴奏で歌を歌ったっ!の巻☆> <カーペンターズのリチャードの伴奏で歌を歌ったっ!の巻☆> <カーペンターズのリチャードの伴奏で歌を歌ったっ!の巻☆> <カーペンターズのリチャードの伴奏で歌を歌ったっ!の巻☆> <カーペンターズのリチャードの伴奏で歌を歌ったっ!の巻☆> <カーペンターズのリチャードの伴奏で歌を歌ったっ!の巻☆> <カーペンターズのリチャードの伴奏で歌を歌ったっ!の巻☆> <カーペンターズのリチャードの伴奏で歌を歌ったっ!の巻☆> <カーペンターズのリチャードの伴奏で歌を歌ったっ!の巻☆> <カーペンターズのリチャードの伴奏で歌を歌ったっ!の巻☆> <カーペンターズのリチャードの伴奏で歌を歌ったっ!の巻☆> <カーペンターズのリチャードの伴奏で歌を歌ったっ!の巻☆> <カーペンターズのリチャードの伴奏で歌を歌ったっ!の巻☆> <カーペンターズのリチャードの伴奏で歌を歌ったっ!の巻☆> <カーペンターズのリチャードの伴奏で歌を歌ったっ!の巻☆> <カーペンターズのリチャードの伴奏で歌を歌ったっ!の巻☆> <カーペンターズのリチャードの伴奏で歌を歌ったっ!の巻☆> <カーペンターズのリチャードの伴奏で歌を歌ったっ!の巻☆> <カーペンターズのリチャードの伴奏で歌を歌ったっ!の巻☆> <カーペンターズのリチャードの伴奏で歌を歌ったっ!の巻☆> <カーペンターズのリチャードの伴奏で歌を歌ったっ!の巻☆> <カーペンターズのリチャードの伴奏で歌を歌ったっ!の巻☆> <カーペンターズのリチャードの伴奏で歌を歌ったっ!の巻☆> <カーペンターズのリチャードの伴奏で歌を歌ったっ!の巻☆> <カーペンターズのリチャードの伴奏で歌を歌ったっ!の巻☆> <カーペンターズのリチャードの伴奏で歌を歌ったっ!の巻☆> <カーペンターズのリチャードの伴奏で歌を歌ったっ!の巻☆> <カーペンターズのリチャードの伴奏で歌を歌ったっ!の巻☆> <カーペンターズのリチャードの伴奏で歌を歌ったっ!の巻☆> <カーペンターズのリチャードの伴奏で歌を歌ったっ!の巻☆> <カーペンターズのリチャードの伴奏で歌を歌ったっ!の巻☆> <カーペンターズのリチャードの伴奏で歌を歌ったっ!の巻☆> <カーペンターズのリチャードの伴奏で歌を歌ったっ!の巻☆> <カーペンターズのリチャードの伴奏で歌を歌ったっ!の巻☆> <カーペンターズのリチャードの伴奏で歌を歌ったっ!の巻☆> <カーペンターズのリチャードの伴奏で歌を歌ったっ!の巻☆> <カーペンターズのリチャードの伴奏で歌を歌ったっ!の巻☆> <カーペンターズのリチャードの伴奏で歌を歌ったっ!の巻☆> <カーペンターズのリチャードの伴奏で歌を歌ったっ!の巻☆> <カーペンターズのリチャードの伴奏で歌を歌ったっ!の巻☆> <カーペンターズのリチャードの伴奏で歌を歌ったっ!の巻☆> <カーペンターズのリチャードの伴奏で歌を歌ったっ!の巻☆> <カーペンターズのリチャードの伴奏で歌を歌ったっ!の巻☆> <カーペンターズのリチャードの伴奏で歌を歌ったっ!の巻☆> <カーペンターズのリチャードの伴奏で歌を歌ったっ!の巻☆> <カーペンターズのリチャードの伴奏で歌を歌ったっ!の巻☆> <カーペンターズのリチャードの伴奏で歌を歌ったっ!の巻☆> <カーペンターズのリチャードの伴奏で歌を歌ったっ!の巻☆> <カーペンターズのリチャードの伴奏で歌を歌ったっ!の巻☆> <カーペンターズのリチャードの伴奏で歌を歌ったっ!の巻☆> <カーペンターズのリチャードの伴奏で歌を歌ったっ!の巻☆> <カーペンターズのリチャードの伴奏で歌を歌ったっ!の巻☆>
 

鈴木ナオミ - Naomi Suzuki -

★Contact★

nanamusic@btinternet.com or naomi@sweet-naomi.com

   

日本文化発信企画「UK-JAPAN Bridge Together」をロンドンで開催、夏木マリと共演する。

 

2020年 Covid-19の感染拡大により、ツアーイベントはキャンセルを余儀なくされるも、イギリスの医療従事者を支援するオンラインチャリティーコンサートに参加、また熊本豪雨被災地支援チャリティーコンサートも配信で開催。収益は全て寄付している。

 

2020年6月にリリースした「Harder and Fasrer」が、世界1693のラジオ局・ DJの投票で1位になる。

2021年1月にリリースした「Pray for you 2021 Remix」が、世界1693のラジオ局・ DJの投票で2度目の1位になる。

ロンドンから日本に向けて、ロンドン情報を発信するラジオ番組「ナオミのLONDON CALLING(日本7カ所のFM放送局)」のパーソナリティーを務める傍ら、毎年7万人以上を動員する『英国ジャパン祭り』の総合司会を初回から8年間担当。 世界映像博覧会でNHKのプレゼンター、MTVの番組宣伝プレゼンター、オリンピック関連イベント司会、

もしもしにっぽん in Londonの司会、松竹歌舞伎のレセプション司会を勤めるなどプレゼンターとしても活躍中。

また女優として英国の名優ヒュー・グラントと映画で共演。ヨーロッパのTVコマーシャルや、英国のドラマなどにも出演する。

鈴木ナオミ 波瀾万丈ストーリー

鈴木ナオミの波乱万丈ストーリーはここから始まる。

あれは小学校3年の春だった。 引っ込み思案であった私は、エレクトーンという楽器を与えられ音楽で自分を表現すると言う事にのめり込む。 音大生しかみないという近所で評判の教室でオーディションを受けた際、その講師は私の事を「この子は10年に一度でるかでないかのスター」と過剰に褒め、レッスンに通うよう勧める。その後、九州大会や、全国大会に出場。九州大会では二度優勝する。観客との呼吸が同じになって一体感を感じる感覚。

スポットライトの中で自分がはじける感覚に目覚め、エンターテイナーとして一歩を踏み出すも、小学校5年の夏休みに5メートル下の立体交差点に墜落。腕を複雑骨折し、切断の危機に遭遇。その後、なんとか切断は免れ再度復帰を目指してコンクールで優勝するも、神経のない不自由な腕になり、長時間のレッスンが厳しくなり演奏活動を諦める。しかし、音楽で表現することを止める事ができなかった。そして歌へと。。

鈴木ナオミの波乱万丈ストーリーはこの時既に始まっていたのかも知れない。 日本で「なんちゃってアイドル」として、アニメの主題歌やコマーシャルソングを歌っていたりしたある夏の日。イベントコンサートでロックや外国の歌をぶっちぎれて歌っていたらイギリスのレーベルのプロデューサーが近寄って来て囁いた。 「イギリスでデビューしませんか?」恐れを知らなかったナオミは、英語もしゃべれないのに「タダでイギリス旅行!」とウキウキ後先考えずにロンドンへやって来た。両親はひっくりかえった。ビギナーズラックで、UKダンスチャート12位になったり、BBCでドキュメンタリーは放送されたりしたのに、母は、私が知らない国へ売られたと思ったらしい。

 

しかし、ビギナーズラックは所詮ビグナーズラック。日本でCMやドラマのタイアップも決まり大掛かりなデビューが決定した頃、日本へ凱旋売り出し企画の制作費1億円が、間に入ったプロデューサーによって、持ち逃げされるという事件発覚。関係者全員「クビ」でいきなりの、ジ・エンド宣告だった。

鈴木ナオミのリベンジ第一章は『ヒューグラントと共演』から始まる。 プロデューサー1億円持ち逃げ事件の後、日本の大手レーベルとの契約も立ち消えになり路頭に迷っている時、何気に受けたオーディションに受かってしまい、 映画出演の話が舞い込んだ。それも当時大スターだったヒューグラントとの共演!オーディションでは、グラマラスで美人な女優さんばかりが集まり、「これは場違い!」と、一刻も早くこの場から立ち去る事を決断。プロデューサーの「君にとって愛とは?」の質問にふざけた回答をしたのが、ウケたらしい。その日の内にプロデューサーから合格!の電話があった。実際は一瞬の登場だったものの、8時間にも及ぶ、ヒューグラントとの素っ裸のベットシーンを演じた。

その後、連続ドラマにも出演でシンドラーのリストやハリーポッターに出てくるRalph Fiennesという俳優さんとも共演。でも、英語があまりしゃべれず、「What is your name?」の質問にも「イエ~~イ!」しか答えられない。 これは「いかん!」と学校に通って猛勉強を開始した。そしてまた事件 がっ!!

後2週間で日本に帰国命令!? 有名映画に出たと浮かれている場合じゃなかった。 ビザ更新の為に、一時国外へ出てイギリスに戻って来たときに発覚。「これ以上ビザは延長できないので帰国せよ。」と強制送還命令。(当時ビザは空港で発行してもらえた)志半ばで日本になんか帰れない。 その時、急遽思い立ったのは、アーティストとしての経験を生かして、制作会社&日本のアーティストのイギリスの活動を支援する会社を設立すること。結果なんとかこの窮地を切り抜けた。 会社設立当時、宇多田ヒカル、矢井田瞳、小柳ゆき、布袋寅泰、黒夢、Luna SeaのSUGIZO、さかいゆう、葉加瀬太郎、らの活動をコーディネートした。

 

 

その後も、日本のテレビ番組やCM制作の依頼、ロンドンオリンピックの仕事までがどんどん入って来て、もう歌なんて 歌っている場合ではなかった。 このまま、歌をやめてしまうのか?設立した会社は忙しくなったものの、日本のトップアーティストのスタッフとして仕事をすることに葛藤はあった。むしろ『嫉妬』 と言った方が正しいかもしれない。自分がステージに立ってない事への嫉妬。あるアーティストのレコーディングの日、マスターテープ(後に1位になったアルバムの素材)が不明になった。その時「そのまま出てこなければ良い。」と一瞬でも思ってしまった自分を恥じた。情けなかった。コーディネーター、経営者と してプロ意識が持てない自分を心底嫌った。

そこから決めた。「今までの自分を捨てよう。自分はもうステージに立つ事を望むまい」と。トップアーティストの裏方のプロとして生きて行こう。 その時から私は、アーティストの部品になることに集中した。そして関わったアーティストは皆スターダムへと上り詰めて行った。 だけど、やはり歌う事は止められなかった。細々と、「ナオミ劇場」なる小さなショーを開催して、日本語の懐かしい歌を歌いロンドン在住日本人に楽しんで頂いた。もうそれで 良かった。そして遂にこんな依頼が!! <カーペンターズのリチャードの伴奏で歌を歌ったっ!の巻☆>

歌を諦めた頃、リチャードの日本での番組出演のお手伝いをすることになった事をきっかけに、グラミー賞に同行し、リチャードカーペンターズのご自宅まで行く事になったことには、天変地異かと思った。

 

 

そもそも、リチャードとの出会いのきっかけをくれたのは、「日本で故ダイアナ妃の写真、ドレスの展覧会を開催したいので、オーガナイズして欲しい」と私に依頼して来た日本の制作会社だった。

依頼内容は王室オフィシャルのカメラマンとの契約。妃が亡くなる直前までドレスを作り続けた妃のお気に入りのデザイナーのドレスの展示。ハードル高過ぎっ!と思ったが 、駄目な気はしなかった。 デザイナーのサロンへ押し掛け直談判で、その日の内に契約を取り付けた。結果2年間、日本全国14カ所 123日間で、のべ23万人を動員の大成功の展覧会となった。 (その時に制作したBGMアルバムが後に、全米でヒットするAJ Unityの楽曲となる) 話は戻るが、リチャードカーペンターが、取材の後、「ナオミは何が歌えるの?」と、そこにあったピアノで私の為に、”I need in love“という曲を伴奏してくれ、その伴奏で歌ったのだ!!こん